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【実録】統合失調症の陽性症状・陰性症状の特徴や接し方、生き方を経験から解説

はじめに ~思春期からの幻聴・幻覚の発症~

私は、統合失調症です。いつ頃から統合失調症なのかといいますと、はっきりとはわからないのですが、記憶にある限りで思い起こしてみれば、中学3年生の時。すなわち15歳の時からだと思います。

 

私は、病院に行くまで、自分が統合失調症なのだという意識はなく、また、勿論のことですが統合失調症という精神疾患があることも全く知りませんでした。なんだか私はテレパシーが使えるのかもしれない、もしかしたら、私は父親と母親から生まれたのではなく、宇宙から来た宇宙人のかぐや姫なのかもしれない、と。冗談のようですが、本気で考えていました。幸運なことに、そう考えるのでさえ、恥ずかしくておかしなことだという認識はありました。そのため、誰かに相談することもなく、そのおかしなことは心の内に秘めていました。

 

私の父親は会社員で、母親は忙しくボランティア活動に勤しんでいて、中学3年生の頃、家に帰れば一人きりの生活でした。友達も少ないため、遊びに出かけることもありません。なので、私は、家に誰もいなくなったことをいいことにして、二階に駆け上がって、窓の外を見て青空に向かって「お願いですから、わたしを普通の人にしてください、なんだか私は変な人なのです。何かがおかしいです。神様どうかお願いします。」と声に出して、涙を浮かべながら祈っていました。今考えれば奇妙な話です。

 

統合失調症の症状は、「私は他人からなぜか注目を浴びているようだ」という点から始まりました。中学生の頃、私には好きな人がいました。学生時代誰もがそうだったように、恋の噂というのはすぐに広まるものです。私の場合もそうでした。友達がいなくてどうしてばれるんだろうと思われるかもしれませんが、とりわけ私はとてもわかりやすい性質だったために、学年全体に噂は広まって本人にもいきわたりました。

 

それからの毎日は、とても悲惨なものでした。「私はみんなから注目されている」という意識が強いあまり、幻聴・幻覚が聞こえるようになりました。授業中、男の子たちがずっとわざとらしく自分の方を見てきている、帰り道、自宅まで男の子がストーカーしてきている、などの幻覚や、「キモイ。」時には「可愛い。」などの人の声が聞こえました。

 

この他にも、部活にも影響がありました。私は吹奏楽部に所属していたのですが、後輩ができると、年下が苦手な私は、後輩の目線までも気になりだしました。個人練習中、後輩が近くで練習していると、どこを見ていいのかわからなくなり、またまた挙動不審な姿が後輩の間で噂になりました。このような毎日の生活を半分いじめのように感じていました。

 

ある日、部活の数少ない友人に、私は男子に嫌がらせを受けている、とだけ相談しました。その友人は、男子と割と仲が良かったため、すぐに、「○○ちゃんに嫌がらせしているならやめなよ」と伝えてくれましたが、返ってきたのは、「何にもしていないよ」という言葉だったそうです。

 

私はその言葉を聞いて、おかしいな、とは思わず、その男子の正当防衛なのだと考えて、更に男子を憎みました。今冷静になって考えてみると、その男子の言って言ったことは真実だったのだと思います。なぜなら、私は、真実が何かわからなくなるという病気、統合失調症だったからです。

 

私は、こつこつ真面目に勉強する性格でしたので、内申点、出席状況も良好であったので、受験なしで、成績だけで高校に進学できるという方法で高校受験を終わらせました。だから、「ああ、この中学校生活からやっと抜け出せる、余計なストレスはなく、穏やかに高校生活が送れる。」と思って高校生活に密かに希望を抱いていました。しかし、統合失調症とつゆ知らずの私は、治療を受けることもなかったため、私の精神は中学校生活よりももっと重症になってしまいました。

 

私は音楽が好きで吹奏楽部に入ったというよりは、楽器の関係で入部しました。中学校では、強制的に吹奏楽部で人員の関係で足りないフルートという楽器を購入することになり、そのフルートをどう有効活用して損がないようにするか考えた末、高校の吹奏楽部に入部したのです。また、友人ができやすいという点も魅力でしたが、決して、「音楽がやりたい、フルートをどうしても演奏したい。」という情熱は全くなかったです。

 

何となく吹奏楽をやっている感が大きかったため、集中力は全くなく、特に部員みんなで揃って合奏するときには雑念が私の頭の中に湧き溢れました。私はフルートを担当していたと前述しましたが、フルートはブラスバンドの中で一番前の席に配置されるのが一般です。そのため、後ろから部員のみんなが見ているのではないか、後ろの部員はこんなことを考えているのではないか、私の考えが周囲のみんなにばれているのではないか、という考えが頭をかき乱し、益々集中力は途切れていきました。そして、その雑念は次第に酷い「幻聴」へと変わるのです。

 

高校のクラスではというと、高校デビューで小学校3年生ぶりにコンタクトにした私は、見慣れない自分の顔が「普通よりちょっとかわいいかもしれない」と恥ずかしながら自負していました。その高まった自尊心は、「自分はモテている」という誤った考え方に変わり、はたまた大勢のクラスメイトから常に注目を浴びている、悪く言えば監視されているという考えに走ります。

 

思春期の時期、誰もが性に興味があるように、私もその中の一人でした。しかし、わたしは、そのような性について考えることに嫌悪感を持っていました。しかし、集中力が切れるとすぐに性にまつわる考えが頭をよぎって、クラスでも、部活でも、どうしても考えてしまい、その考えと同時に、周囲の目線をビリビリと感じ、性について考えていることへの忠告する心の声が小さな声で遠くから聞こえるようになりました。また、自分の考えが頭から電気のように発信されていると、本気で思いました。

 

家でテレビ見ている時も、生放送だった場合、私が知らない間に頭から電気を送ってしまったから司会者が台詞を噛んでしまったと思うぐらいです。一般的に考えて、それはあり得ないだろうと思うことすらできないようなひどい症状が出始めました。そんな私がどのようにして治療を受けるようになったか、統合失調症だと気づいたかといいますと、それは重大なストレスによってのことでした。

 

高校二年生に無事に進学した私は、吹奏楽部で一番メインとなる演奏会、定期演奏会を控えて、練習に励んでいました。そのさなかに事件は起きました。夏のある日、いつものように部活から自宅に帰って、自分の部屋に行きました。すると、耳元で人が囁くのです。今まで以上にはっきりとした幻聴です。それも、明確に部活の友人の声だと察しがつきました。一人ではなく、一度に複数人。内容は、私の行動を近くからから監視していて、私の行動を観察するような内容や、今日の出来事に関する悪口などです。

 

例えば、「今、ベッドに横になったでしょう。今、見てるよ。」「そんな恰好をして、だらしないねえ。いつもそうなんだあ。」「今日、ソロの演奏間違えたね。変だったよ。バカなんじゃない。」「いつも淫らなことを考えて、気持ち悪い。キモイ。死んでしまえ。」などです。

 

次第に幻聴同士が会話するようになり、誰もいない自分の部屋に部活の友人の声などするわけないと思いながらも、とても恐ろしい経験でした。どこからともなく聞こえてくるその声たちに翻弄されて、私はパニックを起こしました。夏の暑い中、3階へ駆け込み、聞こえないところに行こうと試みましたが、その声は止むことはなく、頭を抱えて発狂しました。「もういい。もうやめてくれ。もう言うな。助けて。」その叫ぶ声をきいた母親は、これはおかしい、とようやく気づき、精神科の病院へと通うことになりました。

統合失調症とは

統合失調症は幻覚や妄想という症状が特徴的な心の病気です。この病気は10代後半〜30代の年代に発症する事が多く、10歳代後半から20歳代にピークが生じます。人口の100人に1人が発症するといわれています。統合失調症は人々と交流しながら家庭や社会で生活することに大きな支障を生じさせ、進学・就職・独立・結婚などの人生の岐路における変化が発症のきっかけとなることが多いようです。なお、統合失調症を発症する原因は明らかにされていません。

統合失調症の陽性症状・陰性症状

統合失調症の症状には大まかに2つのタイプがあります。病気の症状が急激に現れる時期、病気になり始めの時期は「陽性症状」が発症します。病気の発症後、年を重ねるにつれ、症状の程度は緩和される傾向があります。一方、陰性症状は年を重ねるにつれ次第に目立ってくる傾向があります。陽性症状・陰性症状の例は以下の通りです。

■陽性症状

  • 幻覚

幻聴・幻視など、外界からの刺激がないにもかかわらず、刺激があるように感じることです。その中でも、幻聴が最も多くみられ、実在しない人物からの声が聞こえます。これは、自分に対しての噂、悪口、なにかの命令であったりします。また、ときに電波やテレパシーとして感じる場合もあります。

 

  • 妄想

自分の悪口を言われている、監視されている、だまされている、というような、あり得ないことがみられます。また、非現実的なことを信じて疑わなくなる被害妄想、自分が他人よりも優れていると感じる誇大妄想があります。

 

  • 思考の障害

考えがまとまらなくなり、話をするとき全く関連性の無い話題へ飛び、まとまりのない会話をする場合があります。重症になると会話が支離滅裂になって聞き手は理解不能になります。

 

  • 行動における問題

無意味な言葉を繰り返したり、目的のない運動など、奇妙な行動をとったりする場合があります。また、極度に興奮し、激しく大声で叫んだりする場合があります。

 

  • 病識の障害

自分が病気である意識を「病識」といいます。急性期の患者さんは統合失調症という病気である意識がありません。

 

■陰性症状

  • 感情が豊かでなくなる

他の人の気持ちに共感することが難しくなったり、動きのない表情をしたりし、感情表現が乏しくなります。

 

  • 興味関心・意欲が低下する

勉強や仕事など何事にも気力や意欲がわかず、学校や勤務先に急に行けなくなったりします。勉強や仕事など何に対しても気力や意欲がわかず、周囲のことに関心や興味がなくなります。集中力低下もみられます。

 

  • 会話の障害(思考が低下する)

話のピントがずれる、話題が飛ぶ、相手の話の要点や考えがわからない、作業ミスが多い、行動の能率が悪いなどが挙げられます。

病院のかかり方(セカンドオピニオンについて)

私が病気を発症して一番初めにかかり、今も診てもらっているかかりつけの心療内科は、一人の患者さんにつき3、4分で診察が終了してしまうような病院でした。毎回その病院では、「最近どんな感じですか。」「幻聴はありますか。」「薬はいつも通りでいいですか。」といった内容の会話で、よく話を聞いてもらえている感覚はなく、いつも何か物足りないなあと思っていました。

 

このままの治療でいいのか不安になった私は、そのかかりつけの先生に紹介状を書いてもらい、セカンドオピニオンをとることにしました。このセカンドオピニオンとは、これまでの治療で良かったか、これからもこの治療でいいのか、患者さんが納得のいく治療方法を選ぶことができるように、他の病院の先生にも診てもらい、第二の意見をきくことです。

 

しかし、紹介状の内容を見たその別の先生は、高校2年生の頃からお世話になっている、私のことをよく知っている先生にこれからも診てもらうことを勧められました。治療もこれまで通りで良いし、これからもその治療で良いし、元から見てもらっている先生の治療の判断に誤りはないとのことでした。

 

統合失調症という病気は、長い目で見る必要のある病気なので、先生の質問が毎回形式的になって、あまり話を聞いてもらえていないと感じることもしばしばあると思います。それは仕方のないことです。しかし、あまりにもかかっている病院に疑念がわいたら、セカンドオピニオンという方法をとることもできます。

 

先生にセカンドオピニオンをしたいと伝える前に、どこの病院に行きたいか事前に調べておきましょう。病院の先生は病院の名前を言えばどこのどういった病院か理解があるため、事がスムーズに進みます。そして、かかりつけの先生に、別の病院の先生の名前が書かれた紹介状を書いてもらいましょう。そして、可能ならば何故その病院に行きたいかも伝えると、先生もこれまでの診察の形を見直してくれるかも知れません。

 

私の場合は、セカンドオピニオンの際に、かかりつけの先生に病院での診察の不満を伝えると、次回から病院のシステムが変わって、先生が一人の患者さんにつき今までよりも少し長めに診察する代わりに休診日が増えるなど、私の思いは改善されていました。このように、病院に通っていて、何か不満があり変えてほしい点があれば正直に先生に申し出ることも一つの方法だと考えています。

大学時代のアルバイトについて

高校時代、私はあるアイドルグループの熱烈なファンで、そのアイドルグループのメンバーが食べたというお蕎麦屋さんで働くことに関心を持っていました。そして、あわよくばアイドルに会えるかもといった軽薄かつ不純な動機で、お蕎麦屋さんのアルバイトをすることになりました。

 

私は、ホールや、厨房とホールのつなぎ役となるパントリーを担当しました。お蕎麦屋さんというのは皆さんが想像するように威勢よく挨拶したりする体育会系のバイトです。バイトに入って最初の方こそ新鮮味もあり、楽しくやっていました。しかし、段々と混雑時での仕事や一緒に働くメンバーの人間関係のストレスを感じるようになって、私の心は疲弊していきました。

 

統合失調症にかかると、ストレスによって薬を飲んでいても幻聴が再発します。アルバイトを始めると、蕎麦屋のバイトスタッフは体育会系の元気のいい人ばかり集まっていました。周りには自分と波長の合わない人ばかりでした。そして、仕事のできなくて時々ドタキャンする自分は嫌われているのではないかと疑心暗鬼に陥りました。

 

このような人間関係でのストレスや、なかなか慣れることのない作業のストレスが多くあり、薬のおかげで少しの間ですがご無沙汰していた幻聴の声がまたはっきりと聞こえ始めるようになりました。仕事中に同じバイト仲間に「汚い。」「くさい。」「とろい。」「必要ない。」「バカ。」「気持ち悪い。」といわれているように感じたり、時にはお客さんから「可愛い」などの声が聞こえ始めるようになりました。また、自分の考えが外に漏れているように感じたりして、高校時代の頃を想い出し、とても悲しい気持ちでした。極めつけは、店長に関する妄想だったと思います。

 

私は、入社して1年経っても、仕事をドタキャンしがちだったため、自分より後から入社した後輩のアルバイトスタッフよりも劣って電話も取ることのできないような仕事ができないアルバイトでした。そのことに劣等感を抱いていたせいか、店長が私の横で電話を取る後輩になにか言っているように感じました。「○○ちゃんはすごいねえ。この前ここに入ったばっかりなのに、もう電話取れるなんて。」その声ははっきりと聞こえました。

 

電話の取れない私の前で私と後輩を比較し、わざとらしく後輩を褒めているように感じました。そして、私はこの店には邪魔な存在、給料泥棒扱いされているのだと感じました。ひどく傷ついた私は泣きながら家に帰り、その出来事がきっかけで、もう限界だと感じた私はその日限りで蕎麦屋のアルバイトを辞職しました。

 

今思えば、蕎麦屋で働くこと自体、統合失調症の私にとってはあまりよろしくないことだったのだと考えています。陰性症状を発症しかけていた私にとって、ホールでの接客やパントリーでの作業は不適切でした。

 

蕎麦屋でのアルバイトをした時の私は、陽性症状と陰性症状、どちらも生じていました。陰性症状では、思考力の低下が生じていたため、前項でも説明した通り、バイトリーダーや店長など、相手の話の要点や考えがわからない、オーダーを取る際、作業ミスが多い、行動の能率が悪いなど、お店側に多くのご迷惑をおかけしました。また、陽性症状では、前述したように妄想や幻聴が発症し、自分の心身を痛めつけることになりました。

 

ここまで読むと、「統合失調症になるとアルバイトもできなくなるのか。」と思うかもしれませんが、諦めないでください。統合失調症になると、ストレスの多い接客や思考を張り巡らせる仕事は向いていないかもしれませんが、できる仕事は必ずあります。

 

私の場合は、パン工場や総菜工場でのライン作業のアルバイトでした。今も工場で同じようなアルバイトを続けられているくらい、統合失調症の私にもできる仕事です。人間関係も特に気を遣う必要もありませんし、黙々と目の前にある仕事をこなせばいいので、大きなストレスはなく、楽といえば楽です。

 

しかし、これも列記とした仕事のため、気を抜いて働けばベルトコンベアーにのってこちらに向かってくる商品が雪崩のように攻めてきて、周囲の社員に大変迷惑を掛けることになります。基本的に工場のベルトコンベアーは個人のために止まることはないので、ここでは少しの辛抱が必要です。

 

陰性症状だけがはっきりとみられるようになると、意欲が低下し、勤務先に向かうことが苦痛で仕方がない日もあります。しかし、私はあまり「自分は病気なんだ」ということを意識しないで生活するようにしています。病気を理由にして自分のやりたいことを制限したくないからです。そうすると、勤務したくない日も、自分の甘えだと考えを置き換えることによって、行動に移せる時があります。

 

ただ、ストレスに弱い病気で、無理は禁物なので、1日おきにシフトを組んだりしています。そうやって自分自身を自分でコントロールできるようになれば、統合失調症でも仕事ができるようになると考えています。

統合失調症でも国家試験に合格できる

「ビューティフル・マインド」という実話からできている外国映画をご存知でしょうか。ネタバレになりますが、この映画の結末、主人公の統合失調症の男性がノーベル賞をとります。この映画を観ても分かりますが、統合失調症に学力のできる、できないは関係ありません。

 

実際、私は管理栄養士の国家資格をもっています。大学は、管理栄養士養成学校でしたので、管理栄養士になるために大学1年生の頃から力を入れて勉強していました。しかし、陰性症状である集中力の低下や意欲の低下がみられていた私は、いざ、受験勉強を始めるにあたって、参考書は取りそろえたものの、机に座って勉強すること自体がとても苦痛でした。

 

管理栄養士養成学校で4年間勉強したからには、管理栄養士免許を取らなくてはならない、今までの四年間の大学の学費を払ってくれた親に申しわけない。必ず管理栄養士国家試験に受からなくてはならない、というプレッシャーがありました。私は元々プレッシャーに弱い性質だったため、受験が迫れば迫るほど、鬱のようになっていきました。

 

「私は逃げている。根性なしで意気地なしだ。友人たちのようにもっともっと勉強しなくてはならないのに、それが何で私にはできないんだろう。私は弱い人間だ、生きる価値がない」と毎日のように考え、人間をやめたいとまで思うようになりました。

 

統合失調症の病状はというと、薬の用法用量を守ってきちんと飲んでいたため、ほぼ明確な幻聴が聞こえることもなく、ごく普通の大学生活をしていました。しかし、人の目を気にするあまり、時々、周囲で起こる笑い声が自分を嘲笑っているように聞こえたり、こそこそと遠くから他人の話す声が聞こえれば、私の陰口を言っているのではないかと思ったりしました。ただ、それも半分思う程度で、幻聴だという意識はあるぐらい病状は回復傾向にありました。

 

朝起きて大学に行くことさえも苦痛で、何度も遅刻や欠席をしました。友人関係のもつれもあったかもしれません。私には大学で心の許せる友人がいませんでした。友人は何人かいたものの、いわゆる金魚の粉のようにあるグループについて回るだけの友人でした。ひどい日は挨拶のみで一切会話をしない日もありました。私も、統合失調症の陰性症状がみられており、会話をすることが億劫で、おしゃべりが苦手になっていたせいもあります。また、意欲の低下や興味関心の低下がみられていた私は、学校に行きたくないと強く思い始めたのです。

 

模擬試験の点数もなかなか伸びず、学年の平均点を下回る一方でした。私は、自分で管理栄養士の国家試験なんて受かるはずがないと思い、もし不合格だった時は、ゼミの先生には申し訳ないが、受験会場には出向いたものの、インフルエンザの高熱で頭が痛くて思うように試験に取り組めなかった、と言おう、とまでしっかり不合格だった時の言い訳を考えるほど、合格の自信はありませんでした。

 

そんな中、私の父は言いました。「国家試験、受かっても、受からなくてもいいんだよ。今やったことは力になるよ。勉強は一生ものだし、一生やり続けるものだからね。強くなるために人は勉強するんだよ。他人のために勉強を頑張るんじゃなくて、自分の為に勉強をするんだよ。だから、ちょっとずつでいいんだ。勉強は少しだけでも、やるとやらないとでは全然違うからね。気楽にやればいいよ。」と。

 

病院の先生からは、「ここまで入院せずに、大学進学までできて、すごいね。よく頑張っているよ。大学卒業を第一優先に考えて国家試験はできれば受かるといいよね。」私はこの言葉に強く勇気づけられました。この父親や病院の先生の言葉で、私の心は軽くなり、国家試験勉強に対して気楽に考えることが出来ました。

 

また、父親の話を聞いて、大学入学当初、自分で言っていたことを思い出しました。「管理栄養士とか、専門の職業につけなくても、食に関することを勉強することで生きる力になると思う。だからちょっと勉強が忙しい大学かもしれないけど、この学校にする。」と自分が言っていたことを。

 

それから、学校を欠席しがちだった私は、何とか大学卒業だけはしようと、友人関係にけりをつけて、学校に通い始めました。国家試験まで2週間を切っていましたが、勉強を始めました。机に座ることが出来ないのなら、寝ながらやろう、地べたに座りながらやってみよう、歩きながらやってみよう、自分の頑張れる範囲の中で色々工夫して、父親の言う通り「ちょっとずつの成果」を信じて毎日勉強しました。

 

そして、私は晴れて管理栄養士国家試験に合格しました。統合失調症だからと言って、勉強ができないということはありません。自分の勉強しやすいやり方で勉強を進めればいいのです。また、資格が取れないなんてこともありません。統合失調症のせいで、夢を諦めないでほしいです。夢を努力して追いかける人には必ず成果がついてくると私は信じています。

統合失調症の患者さんの働き方

私は、転職を2回経験しました。四年制大学を卒業した後、新卒で始めた仕事は保育園の栄養士でした。しかし、保育園の栄養士は私には辛いものでした。子どもが特に好きというわけでもなかったのですが、管理栄養士として資格を活かして働かなくてはという義務感があり、何社も企業や、老人ホーム、病院など出向いて就職活動を30社ほどしました。売り手市場といわれていた私の時代は、友人たちはほとんどの人が内定を早々ととり、私非常に焦っていました。

 

なかなか内定がもらえなかった私が、大学卒業間近、滑り込みで入社できたのがその保育園でした。小さな保育園ということもあって、厨房の湿度や気温の管理は整備されていませんでした。夏の暑い日は悲惨なもので、容赦なく厨房内の気温は上がり続けました。塩飴をなめ、冷茶を飲みながら一生懸命に働きました。

 

例え休憩が20分、30分しかなかろうとも、自分に鞭を打って厨房で朝早くから急いで野菜を刻み、熱い大きなお鍋をかき回し、毎日厨房中の掃除をし、子どもとふれあい、働き続けました。また、体力がない私は仕事は身体にいいのだと自分にいいきかせて毎日出勤し続けました。仕事が遅い私は、定時までに仕事を終わらせることができず、サービス残業を多くしました。今ではその保育園がブラック企業だったんだなと考えることができます。

 

幻聴が聞こえることもしばしばありました。人の心の声が手に取るように感じられ、逆に私の思っていることも感じとられている感覚がありました。しかし、病気の急性期は過ぎたため、病気であるという意識があった私は、かかりつけの先生の言ったように、余計な幻聴はすべて受け流し、気にしないように心がけていました。

 

そんな毎日を送る中で、私は身も心もすっかり疲れ果ててしまいました。無理して頑張りすぎてしまったのです。無断欠席が多くなり、ストレスのあまり誰もいないところで大声をあげて一人で怒り、先輩栄養士の前でしたが、気が緩むとなぜか涙が次から次へと溢れ出してきて号泣したこともありました。私は、統合失調症の他に適応障害になってしまいました。

 

適応障害とは、新入社員に多く見られる心の病気で、涙もろくなったり、憂鬱な気分になったり、不安感が強くなったり、過剰に心配したり、神経が過敏になったりします。また、行動面では無断欠席や喧嘩、物を壊すなどがみられます。ある特定の出来事や状況が患者にとって非常に辛く耐えがたいと感じられます。しかし、そのストレスとなる因子から離れると、症状は段々と回復する疾患です。

 

適応障害になりやすい人の例として、「人の目や評価が気になる人」が挙げられます。私の統合失調症の症状として、人の注目を浴びているのではないかという点がきっかけで幻聴などを発症したものですから、元から人の目を気にする性質ということがお分かりいただけるように、統合失調症の中でも適応障害になりやすいパターンだったといえるかもしれません。

 

そんなある日、私は救急車で病院に運ばれました。オーバードースをしてしまったのです。オーバードースとは、心の病気を持つ人が医師から処方された薬を既定の容量・用法を守らず、必要以上に大量に摂取してしまうことです。いわゆる自傷行為です。オーバードースは勿論患者の身体に多大な影響を与え、死に至るケースもあります。私は、自殺について真面目に考えていたため、オーバードースが身体にどんな影響をもたらすのか知っていました。オーバードースをして、静かに、誰にも迷惑をかけない方法で死のうと決意したのです。

 

結局、幸いにもすぐに母親が異常な量の薬を飲んだ跡を発見し、早い段階に救急車で運ばれて治療したため、命を失うことなく済みました。私はその後、保育園勤務を休職することになりました。しばらくして、また新しく転職することを決意し、二度目の就職先は、病院の受付事務でした。「受付ってなんか楽そうだし事務も栄養士と違って体力それほど消耗しなさそうだな」という甘い考えから入社した私は、自業自得ですが、慣れない接客に大きなストレスを抱くことになりました。

 

勤務中に人前で泣き出したり、欠勤が多くなり、会社側に非常に迷惑をかけました。私は仕事ができない人間なんだなと悟り、「社会に貢献出来ない価値のない人間なんだ」と深く落ち込みました。気づくと、二度目のオーバードースをしていました。これまた幸いにも命を落とさずに済みました。私は幸運な人間です。間もなく二度目に就職した病院の受付事務も辞職しました。そして、正社員で働くことに難しさを感じていた私は、現在の就職先である工場でのアルバイト勤務を決めました。

 

今振り返ってみると、統合失調症にとらわれずに、就職活動を行ったこと、仕事したこと、転職活動を行ったこと、全て今の私の力や自信になっていると感じます。人生は経験です。何度失敗してもいいのです。また、統合失調症だからと言って新卒から1年或いは3年は続けなくてはならないなんてことはありません。

 

「石の上にも三年」という言葉がありますが、無理がたたって石の上で死んでしまっては元も子もありません。統合失調症は心の病気のため、うるさいように何度も言うようですが無理は禁物です。自分が壊れてしまう前に、また、エネルギーを全部使い果たす前に、一休みして、自分と向き合って、自己分析し、自分に合っていると感じる、自分に頑張り続けられそうな仕事を見つけてみましょう。

統合失調症になっても未来を約束する恋人はできる

統合失調症の患者さんは、「結婚ができない」と思われがちです。何故なら常人には不可解で奇異と思われる言動でパートナーの負担になってしまう恐れがあるためです。インターネット上の掲示板で、統合失調症の方の恋愛について調べると、「統合失調症の彼女とうまくいかない、不安。将来が見えないので別れた。」「統合失調症とわかった時点で別れるべき。」などの心のない発言を目にしました。

 

私も、検索を掛ける度、「この先、恋愛はおろか、結婚もできないのか、悲しい人生だな。」と思って涙しました。しかし、そんな考えが払拭される出来事もありました。

 

まず、失恋の話からします。私は恋の話が大好きな友人と、とあることから街コンへ繰り出すことになりました。街コンへ行ったのはそれが最初で最後でした。その頃は、前述したように病状も回復傾向にあったため、難無く事は進み、良い雰囲気になった人と後日、会うことになりました。

 

そして、数回デートを重ね、ある日、その彼の一人暮らしのお家にお邪魔することになりました。そこで、恋愛もののドラマや漫画を見てこなかった私の素性が仇となりました。私は、相当な恋愛初心者だったため、お家デートがどんなことをするのかとか、男の人のお家に上がり込むとはどんな意味を持つのか、全くの無知でした。ただ、精神薬を飲んでいる以上、性行為はどうしてもしたくなかったのです。

 

その彼とは、結局、自然消滅で別れました。性行為を拒否しただけで、統合失調症のことは全く話す機会を無くしてその恋は終わりを告げました。その程度の男だったんだよ、と友人から助言を受けましたが、もっと真正面から病気のことを話して向き合っていればそんなことにはならなかったのかもしれません。

 

そして、二度目の春が来ました。私は大学を卒業し、晴れて社会人となりました。保育園栄養士の就職が決まりましたが、自分と不適合な仕事と向き合うことに葛藤していました。そのため、少ない休日は寝ることだけに専念し、充実しているとは言い切れない休日の過ごし方をしていました。

 

そんな私を見かねた父親が、「合唱団に入ってみないか」といい始めたのです。私は歌うことは得意ではありませんが、歌うこと自体は好きだったので、家でアカペラで歌ったりしていたので、悪い気はせず、幸運にも挑戦してみようかなという元気はあったため、早速家の近くで活動している合唱団にアクセスし、入団お試しの日に出かけました。

 

今お付き合いしている彼氏とは、その時初めて会いました。後日、彼氏は、「一目惚れだった。」と言っていますが、私はちょっと風変わりな人だな、程度にしか思っていませんでした。その彼と付き合うことになったのは、入団お試しの日はから随分と時が経ってから、といいますと、入団決定したものの、保育園栄養士の仕事が思いの他辛いもので、体調を崩してしまい合唱団の活動日に参加できなかったのです。

 

彼に二度目に会ったのは、それから2か月後のことでした。久しぶりにあったのにもかかわらず、彼は私のことを覚えていてくれました。また、初めて会ったときの会話の内容まで掘り下げてくれるくらい、私のことを想って記憶していてくれていました。そうして、連絡先を交換し、二人だけで会うこともしました。ある日、今の彼に告白され、付き合うことになりました。

 

しかし、告白された翌日、一度OKしたものの、前の彼のことを思い出し、「私は病気なんです、その薬を飲んでいる以上、性行為はできないかもしれない。」と、統合失調症のことは言わずに心の病気とだけ伝えました。なぜ、統合失調症を隠したかといいますと、統合失調症は、前述したように、差別される精神病だからです。

 

彼は、何の病気かとても気になる様子でしたが、私の場合は隠し続けました。病院の先生も、まだ、統合失調症のことについて理解してくれる人は少ないですし、統合失調症を受け入れてくれるかはその人次第だね、とおっしゃっていました。

 

結局、後になって、統合失調症と伝えました。今でも大きなストレスを感じると、他人に自分の考えがばれているように感じたり、他人の心の声が聞こえてきたり、誰もいないのに耳元で声が聞こえたり、笑い声が近くで聞こえると自分が笑われているように感じたり、副作用でリラックスするとよだれが多くなって垂れたり、舌をもぐもぐさせたり、無意味な運動をして落ち着きがなかったりする等、様々な症状があることを伝えました。

 

幸い、彼は統合失調症に理解があり、涙を流して病気を告白してくれたことに安心していました。性行為はといいますと、無知だった私は避妊を教わり、毎回徹底して行うことにしました。時々、情緒不安定になって訳も分からず泣いてしまい、彼を困らせることもしばしばあります。勿論喧嘩もします。それでも彼は私と結婚したいな、と言ってくれます。ここで言えることは、統合失調症でも、恋人はできる、ということです。まず、お付き合いを始めるにあたって、自分から病気と向き合うことから始めるとうまくいくのかもしれません。

統合失調症の皆さんへ

統合失調症は、薬を適切に飲み続け、治療を怠らなければ、普通の生活を送ることができます。ただ、ストレスに弱いため、大きなストレスを感じると症状が再発してしまいます。これらを考慮して、自分を大切にしてあげてください。そして、頑張らなくてはならないことに直面した時、無理はしてはいけない病気ということはここまで読んでくださった方ならお分かりいただけると思いますが、自分のキャパシティに見合った頑張り方をしてください。。

 

しかし、例え頑張りすぎてしまってもいいのです。人生に失敗はつきものです。ただ、そこから何を学ぶかがなにより大事です。失敗して自分のキャパシティを知ったあなたは過去の自分よりもすでにグレードアップしています。このように、自分なりの頑張り方を模索し、これからの行動に移すことが大切だと私は考えています。

 

また、重要なことは、病気の症状が見られなくなったからといって、副作用が辛いからといって薬を飲むことをやめたりしないことが大事です。投薬治療を怠れば、症状の再発、病気の進行に繋がる危険性もあります。逆に、私が行ってしまったように、一度に大量の薬を摂取してしまう、オーバードースも危険です。これは後から知りましたが、死のリスクの他に、肝臓や腎臓にも負担があるそうです。

 

何事にも統合失調症である、ないは関係ありません。勉強をこつこつとじっくり頑張れば、国家資格を取得することもできます。高校や大学も無事に卒業できます。仕事も、自己分析をしっかり行えば、自分に適した会社で勤務することができます。また、恋愛も、自分の努力次第でなんとでもなります。全て、統合失調症に関係なく、必ずうまくいくことを私が証明します。統合失調症だからといって、自信を無くすことはありません。夢を諦めることもありません。自分を信じて、少しずつ、ゆっくりと前に進んでいきましょう。

統合失調症の患者さんを見守る方へ

統合失調症の患者さんの周囲の方は、陰性症状を発症している患者さんに対して「寝てばっかり」「怠けている」と思われる方もいるかもしれません。しかし、患者さんからすると「頑張りたい。でも自分の思うように頑張れない」というケースが多いと思います。そのことを心に留めておいていただきたいです。

 

時には自分が鬱になりそうなぐらい、暗い姿を見せるかもしれません。しかし、決して患者さんを責めないであげてください。病気のせいだから仕方ないと何でもかんでも諦めるのは悲しいことですが、「自分が頑張れる範囲で頑張ったらいいんだよ、ゆっくりこつこつ、少しでもいいから前に進めたらいいね。」と優しく見守ってあげてください。

 

また、患者さんの拙い話をちゃんと向き合って聞いたり、悩みを聞いたりするだけでも本人は落ち着きます。まずは、統合失調症について良く知り、本人を認めてあげることから始めてください。例え病気について全ては理解できなくとも、その人の心のよりどころとなって、その日との存在価値を認めてあげることが必要です。

 

また、長い目で見なくてはならない病気のため、しばらく時間が過ぎると、その人が統合失調症だということを忘れてしまうこともあるかもしれません。急性期を過ぎると目立った症状が出なくなるため、その可能性は大いにあります。だからと言って心配し過ぎもその人の負担となってしまいますが、そっと陰から見守ってあげるくらいの気持ちで接することが大切なのだと私は思います。