私がうつ病になったのは、19歳の短大生の頃でした。通学は自宅から自転車や電車を乗り1時間30分ほど。また専門学校であり、課題や制作などに追われる毎日でした。
自分が選び、望んで通っていたはずでしたが、本当のところはもっと別にやりたい夢があり、家族や将来の体裁のために自分にこの学校に行かなければいけないと言い聞かせて通っていました。
2年生の9月、短大の卒業制作に取り組む後期。早朝の電車通学にも耐えて、課題に取り組んでいました。
親に金を出してもらって短大行かせてもらっているので、だらしない成績や学校生活はしたくなくて文化祭の実行委員なども自分からかって出たりもしました。
金銭面以外でできることは全力で短大生活に取り組んできたつもりでした。いつもと同じように朝早く通学し、いつもどおり座席について授業を受けていたら突然気分が悪くなり、ひどい腹痛が起こりました。
何が起きたかわからなかった。わからなかったけどつらい気持ちがいっぱいになった。体調が悪いのもあるが100キロの鉛玉が体にドンッとのっかってきたという体感です。もちろん授業なんて受けることはできずに先生に体調不良を訴えすぐに医務室へ連れて行ってもらいました。
短大の施設は大きく医務室も初めて行くので場所もよく知りませんでしたが、補佐の先生が医務室まで同行してくれました。そのとき肩と体を抱き抱えるように連れて行ってくれて、腕をぎゅっとしてくれたのをありがたく感じてよく覚えています。
その時のやりとりはよく覚えていないし、驚く程医務室の室内とか様子は覚えていません。ベッドに寝かせてもらうと、涙が溢れでて止まりませんでした。
どうして泣いているのかなんで体が重いのか自分では分からずに、流れる涙も拭えずに天井を眺めながら仰向けで泣き続けていました。
どれほど横になっていた、様子を見てくれていた医務室の先生(失礼ですが顔や声も全く覚えていません)がカウンセリングの先生とお話してみる?と言ってくれました。
日本でも有数の大学系列の専門短大だったのでカウンセリングの先生が常勤していたのです。私はカウンセリングをお願いしました。
相談室のような個室にうつり、カウンセリングの先生とお話をしました。そのあとは自分の感情がとりとめもなく溢れてきて、ずっと涙を流しながら話しました。先生は私がどんな気持ちなのか、どうしてこんなにつらいのかを聞き出しながらゆっくりと私の気持ちを私自身に気づかせるように諭しながら話を聞いてくれました。
本当は違うことがしたかった、短大生活は大変でつらかった。卒業するまでなんとかやりたかった、情けない苦しいつらい。そんなことを話した気がします。ほとんど覚えていませんが。
その時の激しい感情の動きはよく覚えているのに具体的に何をどう会話をしたのか先生の声も顔もやっぱり覚えていません。
あの自分の気持ちが土石流のように流れ出てしまうような体験中は時間も空間も一回切り離されて、自分の感情の渦の中にいるのだと思います。
そのあとはすぐに帰宅になりましたが正直よく一人で帰れたなと思います。
それからはずっと家で療養をしていました。初めて母と心療内科へ行きうつ病との診断書を見たときも激しく落ち込み取り乱しました。そのときは同居していた姉や家族に特に迷惑をかけたと思います。
療養中は、精神安定剤と睡眠導入剤でほとんどぼーっとして寝るばかりの毎日でした。その時、好きなゲームのシリーズの新作が出たので起きている時間はずっとゲームをしていた気がします。
実家暮らしで、生活費を心配することもなく療養ができたのがなによりの一番回復の近道でした。
それから翌年2月頃に母と短大に行き中退の手続きを行いました。結構そういう生徒も多いようで担任の先生の対応も手続きも難なくすみみました。ただ担任の先生は母に私はよく頑張っていたと言ってくれたのは今でも救いになっています。
帰りの電車に乗る際、ホームに吸い込まれそうな気持ちになり母に私の手をぎゅっとに握っていてとお願いしました。
あ、あそこすぐに死ねそうだな。と思うと本当に吸い込まれそうになるんですよね。これはうつ病を体験した方にしかわからないような独特な感覚です。
しっかりと療養が進み4月頃には自動車の運転免許取得するくらいには回復しました。桜が綺麗な中教習場に通ったことをよく覚えています。その後もアルバイトなどを始めながら、本来自分がしたかったことの仕事につくことができました。
今でも家族には感謝をしています。短大は最後まで頑張り続けることができなかったのが今でも悔いですが、あの感情の波が授業中でなく、通学中に起こっていたら?どうなっていたかわかりません。
頑張っている真面目な人ほどうつ病になる。といわれていますが私もそのケースだったんじゃないかなと思います。