はじめに
もしもあなたがたったひとりで 24時間責められたら。
見るもの聞くもの触れるものすべてが 苦しむものでしかなかったら。
今日も死ねなかった。ごめんなさい。生き汚くてごめんなさい。
そんな生きづらさにとらわれたら どうやって折り合いをつけられるでしょうか。
私が体験したうつ病は“誰にも助けてもらえない地獄の連続”でした。
しんどすぎた大切な仕事
かつて私はある保育所の正職員でした。特殊な方針で休みが少なく行事は多く、1日中立ちっぱなしで前に抱っこ後ろにおんぶで子供達を保育、サービス残業をし帰宅後も持ち帰り仕事で睡眠時間は4〜5時間。
狭い保育所に在籍児童約100人。畳一畳に子供が2.5人いる計算です。今なら大問題でしょう。事実、この建物は取り壊されました。
少ない正職員が順番に倒れるほどひとりあたりの業務量が多すぎて自転車操業状態。
私も連日くたくたでベッドまでたどり着けず廊下で寝てしまうことも リビングで保育記録を書きながら寝落ちして気づけば朝、そのまま出勤することもしょっちゅうでした。
それでも先輩であり同僚でもある正職員先生方は親切で仲が良く、目の下のくまを濃くしながら冗談を言い私の業務を手伝ってくれました。
こんなにいい先生方に恵まれたのだからがんばらなきゃ、もっと要領よくこなせるようにならなくちゃとこの異常な労働環境に取りこまれたのがうつ病への第一歩でした。
子供達との毎日はやりがいから生きがいに変わり あっという間に3年が経ちました。ところがそれなりの立場になると保護者からのクレームや相談も倍増したのです。
「先生はおせっかいがすぎます。家庭の事情に首つっこまないでください」
「変質者に狙われたら困る。うちの子だけは外から見える場所で遊ばせないで」
「なにかあったらどう責任とる?辞めればすむなんて通らないからな」
かと思えば「保育中ずっとうちの子についててくれない?先生じゃなきゃやだって」
「うちの子は先生の言うことならなんでも聞くから さりげなくパパの悪口吹きこんで」
「今日も迷惑かけてごめんねー。でも先生のことが好きで甘えてるんだし、先生も育児するときの練習だと思って」
昔は緊急連絡網だったので帰宅後も保護者から自宅に電話がかかってきました。私へのクレームかと思いきや子供の相談事であったり保護者自身の悩みや仕事の愚痴だったり。そのつど持ち帰り仕事の手を止めお話を聞きました。
個人情報保護法もなく保育自体のグレーゾーンがとても広い時代で、なにひとつ手を抜けません。ほうっておくと子供達にはね返ってしまうからです。
子供達は全員が私の宝物でした。子供達といられることが幸せで「体力がもたなければ魂けずって守る。命をあずかってるんだから」と仕事に取り組みました。
そうして無我夢中で走り続けるうちに 私はだんだんと「こわれて」いったのです。
うつ病発覚
最初の違和感は頭が重く霧がかかったようなもやもやした感覚でした。
1時間前の指示を忘れ 教材づくりや保育記録などにてこずり、ありえないミスでやり直しが増えるにつれて睡眠時間はますます減りました。
そんな折 友人に「最近様子がおかしい。心療内科へ行け」と言われました。
「そうか、物忘れの対処法を教えてもらおう。頭もすっきりしてまた仕事がはかどるかも」
とんちんかんな前向きさを胸に近所の心療内科に行きました。
ところが。
ドクターの質問にたどたどしく答えると、たった1時間の診察後に衝撃の事実を告げられました。
「あなたは軽度、中度、重度と三段階のうちで中度と重度の間のうつ病です。今すぐ休職してください。今から治療しないと」
物忘れ対策を教わりに来ただけでなんでうつ病?今すぐ休職?
言いたいのにぽかんとしてうまく言えません。は?え?しか言葉が出てこないのです。
ドクターは「ちょっと待って」とその場で診断書を作成しました。
「これを明日先生方に見せて、信頼できる役員保護者数名にも読んでもらって。あとは言われた通りにしてください。できますか?明日 先生方に見せるんですよ」
念を押され診断書入りの封書を受け取りましたが「へえ、封筒がピンク色だ。かわいい色だな」とまったく関係ないことを考えていました。
翌日の午前中 先輩で同僚でもある先生方に診断書を見せると、一瞬で顔色が変わりました。
「今日は早退して、しばらくゆっくりお休みしよっか。仕事も子供達のことも心配いらないよ」
「すぐ役員会議にかける。必ず連絡するからそれまで心療内科でいろいろ話しておいで」
私のことなのに私だけ届かないところでなにかが動き出してしまったと思いました。
自分の状態も認識できなくなっていた私は、疎外感すら感じながらしぶしぶ従いました。
その日は早々に休んでもちっとも眠れず「やっぱりいつもみたいに限界まで疲れてないから眠れないんだ」とため息をつきました。
本当はとっくに体も心も限界を超えて不眠症状が始まっていたのです。
うつ病の自覚
それからしばらく心療内科へ日参し、これまでのことを話すうちに問題点が浮き彫りになってきました。
仕事に没頭しすぎて自分の負担に気づかなかったこと。
人間関係の良さや子供達がなついてくれる居心地の良さから労働としてのキャパオーバーを考えられなくなっていたこと。
保護者からのクレームや相談事で私自身がすりきれてしまっていたこと。
ドクターに「やっぱり相当きわどい状態だったね」
ひとりごとのようにつぶやかれた瞬間、私は泣いていました。
「私は休職と治療が必要なうつ病ですか」
「そうです。しかも軽度ではない。診断書には少なくとも半年から1年の休養を要する、と書きました」
「そんなに休んだら子供達が」
「このままだと事故につながるかもしれないし、あなたの命にもかかわると思う。いくら子供がかわいくてもしんどいな、楽になりたいなってこともたくさんあったんじゃないですか」
「それは……ありました。つらかった、です」
止まらない涙をぬぐうこともできず言いました。
「私 治りますか?子供達を抱きしめたい…こんな私を大好きって言ってくれるんです。宝物なんです。約束…約束したんです。先生、僕がいる間はやめないでって。気になる子で、でもとてもかわいくて。やめないよって。そしたらにこって、その子が、笑って、くれて…」
「待っていてくれます。矛盾して聞こえるかもしれませんが、うつはあわてないでゆっくり治療するのが近道なんですよ」
……たすけて…ください……。
ふるえる声をしぼり出し ぼろぼろ泣きながら頭を下げました。
休職期間決め
子供達のいない時間に保育所へ呼ばれると役員保護者さん方が集まってくれていました。
「先生、この際だから1年間の休職はどう?休職明けはまた正職員でもパートでも望む立場で復帰していいから」
「私…私は、子供達をまかせられない保育者に見えますか」
「そんなことない。私達は先生を信頼してるし子供達が先生大好きなのも知ってる。クビには絶対しないし、籍だけでもここに置いておいてほしいと思ってる」
「辞めるのは私も嫌です。でも、今の自分のせいで、もし…重大な事故につながったらと…そのほうが…こわくて…」
「うん。ありがとうね、いつも子供達のこと1番に考えてくれて」
こうして私は1年間の休職と、本格的なうつ病治療を開始することになりました。
地獄の始まり 負の連鎖
近所の心療内科から電車で通う精神科へと転院、並行して系列院でのカウンセリング治療が始まりました。
腕ききの精神科医とベテランカウンセラーがタッグを組んで治療にあたらなければならないほど、私のうつは深刻だったのです。
本格的な治療と抗うつ薬や睡眠薬を服用すると同時に、次から次へと様々な症状が現れました。「お友達を連れてきたよ」とでもいうような気軽さで、なんの罰だと訴えたくなるたちの悪さをともなって。
もともと兆候はあったのに私自身が見ぬふりをしてきたせいなのでしょう。五感のすべてが狂い自分が自分でなくなっていくのは想像を絶する苦しみでした。
不安、不信、不眠、倦怠感、食欲減退、被害妄想、昼夜逆転、希死念慮。
不安から誰も信じられなくなる。不眠におちいり睡眠薬が手放せず、1日中だるく食欲は失せ被害妄想が始まり死にたくなる。負の連鎖です。
目の前にはつねに厚手で透明なカーテンがぶら下がったように、なにもかもが近いのに遠くぼやけて見えました。現実感はないのに苦痛だけが24時間全身にへばりつきます。
理由もないのに突然泣き出し入浴や排泄すらしんどく、ベッドから動けず時間の感覚がなくなりました。
食べ物の味がしなくなり体重は34キロに激減。頬はこけ髪は抜け生理も止まりジーンズはぶかぶか。ひもで縛ってはくボトムはひもを抜き首を吊るおそれがあるためはけません。
タンスに小学生サイズのウエストゴムズボンが増える一方で、はさみやカッターやボールペンは家族が隠すようになりました。
うつ病になる以前の私はとても活好奇心旺盛で活発でした。たまの休日は友人と遊んだり誘われたライブやドライブではしゃいだり、友人と予定が合わなくても映画館や話題スポットとどこでもひとりで出かける「おんも大好き」タイプ。
馬鹿正直で人を信用しすぎると言われても気に留めず、親しい相手の言葉はまるごと信用してすごいすごいと感心するので「よく今まで無事に生きてこられたもんだ」とあきれられる能天気な人間でした。
それがうつ病になり一変したのです。
私がうつ病で休職したので親しい友人や同僚の先生がたくさん話を聞いてくれ、ときにはお見舞いも来てくれました。何人もです。
誰も安易に励ましたり「がんばれ」の禁句は言いません。本来おしゃべり好きなのに言葉すらまともに出てこない私を見ても「無理してしゃべらなくていいよ」「眠れないのしんどいね、食べられないのつらいね」と静かに寄り添ってくれました。
後で聞くとほぼ全員が「うつ病患者への接し方」を自分で調べ、私が自殺しないかと友人同士連絡をとりあったり私の負担にならない程度に顔を見に来てはやせ細っていく私を心配してくれたそうです。
私はそんな思いやりに気づくどころか、誰のことも信用できなくなっていました。
「100%わかってくれるわけじゃない。できっこない、他人なんだから」
「私の気持ちなんて誰にもわからない。誰も助けてくれない。なんで私だけがこんな目に」
つらい、苦しい、悲しい、こわい、もういやだ、死にたい。
「あれがこわい、あれもこわい。なにがこわいのかわからない。こわいんだよう」と泣きじゃくっておびえるようになりました。
保育していた子供達よりもはるかに幼稚で闇しか持たない子供。
それがこの頃の私でした。
恐怖に支配される日々
今も印象に残っている「怖かったもの」をいくつか挙げてみます。
テレビが怖い
音楽番組とお笑い番組が大好きだったのに、過敏になった私はテレビそのものが観られなくなりました。
音楽は不快な雑音でしかなく、お笑いで大口をあけて笑う人が怖くなったのです。
激しい暴力を一方的に受けているようでした。
普段私の実家はずっとテレビがついているので家族の会話が盛り上がると「ちょっとー、テレビ聞こえないよー」と誰かが文句を言うよくある家庭です。
テレビがついていると私が「お願い消して。殴られてるみたい。つらい」と両手で耳をふさぎ泣いて頼むのでその時は消してもらいました。
小さな音から少しずつまた観るようになりましたが、今も大きなテレビ音は苦手です。
電車が怖い
精神科に2週間に1回、カウンセリングに月1回。
毎月3回は電車に乗らなければならないことはものすごく苦痛でした。
まず座席に座れません。まばらな乗客全員が「いつ危害を加えられるかわからない化物」に見え、じっと座っていられないのです。
たった30〜40分が2時間にも3時間にも感じ冷や汗とふるえが止まりません。
立ったままドアにもたれかかり、ドアの窓から真下をえんえんながめていました。
その角度から見える線路のレールや敷きつめられた砂利は走行中ずっと続くので「危害を加えてこない無機物」としてなんとか耐えられたのです。
平日の昼間、最もすいている時間帯ですら一度も座席に座れなかったので ラッシュの満員電車など考えるだけで吐き気をもよおしました。
いつ頃からまた乗れるようになったのか、今では思い出せません。
春が怖い
ぽかぽか陽気に行き交う人々も重苦しいコートを脱ぐ心地良い季節。
ここでも私はみずみずしく茂る樹木に「さあ、こんなに枝を伸ばしたぞ」カラフルに咲く花々に「どう?こんなに綺麗に咲いたのよ」「お前はなにをやってるんだ?」「なにもできない役立たずめ」という底知れぬ圧力と恐怖しか感じませんでした。
例えばとんでもない凶悪犯があたかも「お前を殺す」というオーラで目の前にじっとたたずんでいられたらとても恐ろしいですよね。それと同じです。
ロータリーの花壇、庭先の木々、あざやかな緑の垣根、道端のタンポポ。
一歩外に出れば否応なしに目に入りますが、物言わぬ植物に責めたてられる焦燥感と絶望感ははっきり覚えています。
ベッド以外の場所が怖い
「うつ病患者はふとんがシェルター」と言いますが、まさにそうでした。
ベッドからおりるのが怖いので、必然的にベッド以外の場所はどこもかしこも怖いのです。
ひどいときは頭からすっぽりふとんにくるまり 夏場もタオルケットの中でうずくまり、自分は存在しないと念じてひたすら息を殺していました。
腕や足が少しでもふとんからはみ出ると、その部分を切り落とされてしまうような恐怖でした。
眠りたいわけでもないのにベッド以外の場所へ移動することを体が拒むのです。
ただトイレに立ったり最低限のものを口にしないといけませんし、ずっと緊張しているため体の節々がこわばり痛みます。
それでもふとんの中にいることで、ほんの少しだけ私の中の苦痛がやわらぐ気がしました。
何者にも侵されない唯一の安全地帯。それがベッドとふとんの中だったのだと思います。
逃げられない恐怖と焦燥と絶望の毎日は、地獄よりも地獄でした。
希死念慮と消滅願望
はじめはわけもなく死にたい、この世界から逃げるには死ぬしかないと思いました。
いわゆる自殺願望、希死念慮です。
ドアノブを見れば首が吊れる。タオルがあれば濡らして窒息できる。ビルの前を通れば飛び降りたら死ねる高さか考える。
「自殺だけはしないで」家族や友人にいくら懇願されても響くことはなく、私の両目は死ねるもの探し機能と化しました。
そのうちに「死んだら家族に迷惑がかかる。友人も泣く。遺体が残る。ならばいっそ消えてなくなりたい」と思うようになりました。少しだけうつがよくなってきたら現れた消滅願望です。
この消滅願望はかなり長い間私を縛りつけ、まるで別れたいと何度言っても別れてくれない恋人のようにずいぶんと苦しめられました。そもそも自分自身が消えたいという願望ですから、なかなかいなくなってくれなかったのは当然かもしれません。
回復に向かって
正直 回復に向かうかっかけはうつ病患者それぞれなので「こうすれば一気に治る」なんて魔法はありません。だから特効薬もないのです。
私の場合は日光を浴びること、家の中でできる筋トレや運動。なにより回復期の家族や友人の支えが大きかったと思います。自殺率が最も高く慎重な接し方が必要な回復期に私が自殺せずにすんだのは、姉と友人達のおかげです。
朝、決まった時間に起きられたらまず自分をほめます。
さらに雨戸とカーテンを開け日光を浴びることができたら大げさに自分をほめます。
私すごい、私えらい!よくやった私!と意識して声に出すのです。
この「意識して事実を声に出し自分をほめる」のがポイントです。次はどんな言葉で自分をほめようか、ちょっとしたことでもいいし無理してできなくてもいい、なるべくもっともっと自分をほめたたえようと「ささやかでもえらいこと」をするようにしました。
他の誰かではだめです。家族に「今日は朝起きられてえらいね」と言われてもプレッシャーになってしまい 次の日はふとんから出られない。逆戻りどころかマイナスになりかねません。
そしてやせすぎて歩くのもしんどいので、少し調子のいい日にやってみたごくごく軽いストレッチ。
そこからゆっくりゆっくり体を動かすようになり、ダイエットしたい母と一緒に購入した筋トレDVDを始めました。
体重は落ちるところまで落ちたのだから、ちょっと筋肉つけたほうが楽かもしれないと筋トレDVDのダンスパートだけをのんびりやっていたら 少しだけ体重が増えました。
こうして抗うつ薬を変えたりもしながら、1年間の休職期間が終わりました。
保育復帰、円満退職
休職期間を終えて先生方や役員保護者の方々と話し合い、私は正職員ではなくパートとして復帰することにしました。
リハビリをかねて週2日4時間ずつの極短勤務です。
普通ならありえない条件ですが「いてくれるだけで嬉しい」と先生方や保護者に温かく迎えていただき、子供達も「先生おかえりー!」「待ってたよ」「もうどこにもいかないでね」ちょっぴりお兄さんお姉さんになった笑顔で抱きついてくれました。
休職明けにはいろいろなことが変わり、新たなシステムも導入されていました。
正職員だった私のうつ病休職がきっかけだったのかはわかりませんが、職場としていくつも改善されていて驚きました。
僕がいなくなるまでやめないでと約束した子の学年もその下の学年も無事に送り出し、週4日のパート勤務を続け 「ああ、やりきった。もうここにいなくても大丈夫」と心から思えたので退職しました。入職して7年がすぎていました。
7年間の保育と4年にわたるうつ闘病に、ようやくひと区切りつきました。
当時保育していた子供達や先生方とは10年以上経った今も交流があり、昔話に花が咲いています。
うつ病ってなあに?
うつ病は「セロトニン不足から来る脳機能の低下」や「心の風邪」と言われますが、そんな理屈や例えに換えられるほど生ぬるいものではありません。
今日調子悪いのはセロトニン不足のせいだ、とは思いませんよね。
風邪でしんどいから死ねば楽になれる、とも思いませんよね。
うつ病患者は自分だけの苦しみでいっぱいいっぱいすぎて、感情や言動のコントロールができません。
それゆえわがままに思われたりなまけているように見えたりしますが、本人は誰も立ち入れない深い深い場所で 罪悪感に押しつぶされて身動きできなくなっているのです。
私の体験したうつ病は“誰にも助けてもらえない地獄の連続”でした。
身近な人に異変を感じたら
友人、知人、同僚、部下。よく接する相手に「最近ちょっと引っかかるな、どうしたのかな」と感じたら 叱咤激励はひかえてください。
「なにかあった?話聞くよ?」ではなく「最近眠れてる?違ったらごめん」と答えやすい声かけをしてあげてください。
骨折して動けない相手をいきなり全部世話しろということではありません。
ギプスをはめて包帯を巻く「外側のケア」を少しだけ手伝うイメージで「これは痛いね」「それは不便だね」とうなずいてあげてほしいのです。
できなければやらなくてもいいのです。
難しいと感じたらすぐに引いても大丈夫。
ただし徹底的に離れ 決してあなたの声が届かない距離を保ってください。
家族や恋人、パートナーのような親密度ならば心療内科や精神科やメンタルクリニックをすすめるか 本人がうんと言うなら付き添ってあげてください。
うつ病は、本人の運命をもゆがめ左右しかねない病気です。
どうか「病気が言わせていること」に傷つかない勇気を。
あなたの一言を そっと差し伸べられる手を もがきながら待っている人がいます。