私は幼少時のころから家庭環境がすこし複雑でした。
母は働きもせずギャンブルとパチンコにお金を溶かす父がいるため、私を生んですぐに働きだしました。小さい私を面倒見るのはおばあちゃんでした。ろくでもない父親のため、夫婦関係の信頼もなくかみ合わず、私が年中になったころには離婚していました。
そして私が年長の時に知り合った男性と母は結婚しました。私は新しいお父さんが好きにはなれませんでした。なぜならそれは、お酒を飲めば暴れ、ギャンブル好きだったからです。
しかし仕事はきっちりしているようでしたが、仕事でストレスが溜まっていたのだと思います。外には出さず、家の中の家族にぶつけるような方でした。
そこからずっと家族は父の顔色見て生活していました。私は学校ともなじめずいじめられていましたが、これ以上母につらい思いさせたくない半分、私も恥ずかしい半分でずっと言えませんでした。
初めて生理になったとき、父は大勢の酒飲みたちを呼び、酒の肴に私が女になったと話し出しました。すると一斉に『胸は何カップだ』『下の毛は生えたのか』そんな言葉を酒飲みたちは私に浴びせ、苦しくて、悲しくて、私はショックのあまりに泣き出しました。
すると母が『いつまで泣くんだ!うるさい!』と怒り出し、誰も味方のいなかった私はただただ耐え忍ぶしかありませんでした。
私が中学生になりすぐに父が体調崩しました。肝硬変でそう長くはないと医者に言われました。それから学校終わりにすぐに面会へ病院に行く日々が続きましたが、父はどんどん弱っていき、亡くなってしまいました。
高校生になると母のお荷物にはなりたくないとバイトを始めましたが、私のおばあちゃんが癌を患いました。年老いているせいか入院はせず自宅療養になり、バイトと学校と家事と介護が1年くらい続き、私は周りから頑張ってねなどの言葉を聞くのがとてもきつくなってきていました。
なにをこれ以上頑張らなければならないの?最高潮に私のできることはやってるはずなのにどうしたらいいのだろうと混乱状態になってはもっと努力できない自分を責め立てていました。
おばあちゃんもなくなってしまいそれから半年後、母は彼氏を連れてきました。
母も苦労ばかりしていたのはわかっていたので、多感な私にとっては複雑でしたが、お付き合いしている母の彼を受け入れようとするも母の彼氏から言われた言葉は『君は僕と君のお母さんの関係を邪魔しに来たの?』とのことでした。
仲良くする気はないといわれてるみたいで、私は頭が真っ白になりました。早く帰りたい気持ちになり一緒にかえろうと母に伝えようとするも、母の顔も完全に女性の顔をしており、私は帰ろうとの言葉を飲み込み、一人で帰りました。
帰ってきた後何とか気持ちを切り替えようとしていた私に母が追って帰ってきて、『あんたのせいで、もっとデートしてたかったのに!あんたなんかいなければ!』と言われたとき、私のなかで何かが切れました。
いままではいい子でいる努力が家族のためになると我慢していたものが、一気憎しみと脱力感に代わり、私が死んでも誰も困らないと確信に変わりました。母には暴力、私は自殺行為という負の連鎖に陥り、母も怖くなり病院に行った結果、私はうつ病という病名がついたのでした。